活動の目的
本研究では、瀬戸内海のほぼ真ん中に位置する笠岡諸島および笠岡沿海域を対象として、その映画史を多角的にたどることを目的とした。まず、映画興行とその受容の歴史を整理しながら、映画ロケについての記憶やロケ地の現状確認にも取り組んだ。また、この地域が舞台となった映画・映像を調査して、作品中で島や海がどのように描かれてきたのかについても考察し、備讃瀬戸全体の映画史・表象史を研究するための手始めとした。
活動の経過
現地調査は活動協力者と連携して5月より断続的に取り組んだ。笠岡および笠岡諸島の島々を訪れて、1950年代から60年代初頭にかけての、映画の黄金時代を中心に聞き取りを行った。また、かつて映画館だった建物やその跡地を訪れ、館主の関係者や周辺住民に取材するとともに、映画のロケが行われた場所についても情報を収集して跡地を確認した。ロケの見物談やエキストラ体験等の聴き取り、当時の写真等の撮影も併せて実施した。
書籍・新聞・雑誌等の関連資料調査は、主に岡山県立図書館や笠岡市立図書館で行ったが、必要に応じて松竹大谷図書館や首都圏の大学図書館、沖縄県立図書館等へも出かけた。東京や京都で開催された日本映画学会では、テーマについて他の映画研究者と意見交換を行った。
笠岡および笠岡諸島を舞台にした映画については、資料や情報を元にDVDやVHSを入手して確認し、ロケ地調査や聴き取り調査に映像を持参してフィードバックさせた。また国立近代美術館フィルムセンターや昭和館の映像コーナー、岡山映像ライブラリーセンター等のフィルムアーカイブでは、ニュース映像やテレビ放映された地域関連映像の所在を調査し、可能なものは視聴した。
活動の成果
筆者はこれまで沖縄や奄美の調査で、島々を巡る映画興行や離島にあった映画館の話を聞いてきた。では瀬戸内海ではどうだったのか。今回の調査で、笠岡沿海域には大正時代末から映画館があったことが判明したが、戦前の笠岡諸島には映画館はなく、大きな工場があった神島では巡回映画の興行が行われていた。また社会教育や衛生啓蒙のための映画が島々を巡回しており、野外上映の準備をする北木島の小学校の写真が確認できた。
戦後も島の人々は笠岡や四国に渡って映画を観るか、学校や公民館に来る巡回映画を待つしかなかったが、1950年代半ばになると神島、白石島、北木島に映画館ができて大勢の観客を集めた。しかしテレビが普及した1960年代前半には島の映画館は閉館し、最盛期には7館あった笠岡沿海域の映画館も最終的にすべて閉館に追い込まれた。北木島には映画館が3館(あるいは4館)もあったが、そのうちの光映劇は2014年に修復再生され、地域活動や観光ツアーの拠点として利用されている。
戦前の笠岡諸島での映画ロケは確認できなかった。北木島では『小島の春』の現地ロケが計画されていたが、ハンセン病を描いていたため島の反対で頓挫している。戦後では1970年代に真鍋島と北木島で『友情』、六島で『獄門島』、1980年代には神島で『海峡』、真鍋島と北木島で『瀬戸内少年野球団』、六島で『犬死にせしもの』が相次いで撮影された。けれどもロケ地跡の保存や文化資源としての活用は、真鍋島でかろうじて確認できたに過ぎない。また映画に登場する瀬戸内海は、一般に波穏やかでのどかなイメージだが、戦後のGHQ統治下で跋扈した海賊たちの姿を描く『犬死にせしもの』では、略奪と暴力に支配された危険な海域として表象されていた。
活動の課題
備讃瀬戸の映画史を記述するための調査は始まったばかりだ。今回取り組んだ笠岡諸島および笠岡沿海域での聞き取りや資料の渉猟、映像資料の確認作業もまだ不十分であり、特に戦前期については情報が極めて少なく、不明な部分が多い。さらに調査を進めるためには、もっと頻繁に現地を訪れて地域の歴史を理解し、島の人々との繋がりを深める必要がある。また今後は調査の対象地域を順次東へ広げて、海域ごとの特徴にも注目したい。
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真鍋島で『友情』に出てくる船の話を聞く
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修復再生された北木島の光映劇内部
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『瀬戸内少年野球団』で使われた看板