活動の目的
菓子木型は落雁などの菓子の成形に使われる道具である。近世の菓子の意匠や大きさなどさまざまな情報を私たちに伝えてくれる資料であるが、これまで四国地方で基礎的な調査が行われたことはない。
この調査により、江戸時代後期に国内有数の砂糖の生産地であった四国地方での近世の菓子文化について考察する。
活動の経過
地域ごとの菓子木型に関する情報をなるべく詳細に把握することを調査方針として、四国地方の近世の旧藩庁所在地を中心に大正期以前に創業した菓子店などに所蔵菓子木型の調査を依頼した。また文化財に関与している機関にも、近世の菓子木型に関する情報提供を依頼した。
この結果、個人所蔵者も含め今年は23の菓子木型所蔵先で調査をさせていただくことができた。各所蔵先では、基本的に菓子木型の計測(各部の寸法と製造される菓子の法量)と写真撮影、聞き取り調査などを行わせていただき、その地域における菓子木型や落雁に関する文献の調査も可能な限り行った。
活動の成果
今回の調査では約700点の菓子木型および関連資料の調査を許可されたが、近世の年紀・製作地・菓子木型彫刻職人などに関する情報が記された資料はごく一部であった。
四国地域内で製造もしくは使用されたと思われる菓子木型のうち、最も古い紀年銘を持つ資料は鳴門市の長栄堂菓舗が所蔵する天保7年(1836)の銘を持つ資料である。長栄堂菓舗は大正5年(1916)創業であるが、この他にも近世の菓子木型が数点見られた。
また、幕末から明治期のものと思われる大洲城下の菓子木型彫刻職人の名が記された菓子木型も確認できた。管見の限りではあるがこの時期の四国地域の菓子木型彫刻職人に関する情報は、この他では讃岐国の職人の名が記された菓子木型が津山市に2点現存するのみであり、貴重な資料である。
香川県と徳島県で和三盆糖などを伝統的な方法で製造している製糖業者についての調査では、近世に遡る菓子木型の使用は確認できなかった。一方で鳴門市撫養では嘉永元年(1848)ごろに砂糖商・菓子製造業として創業したとされる三原屋和三郎(*)に伝わる菓子木型を調査させていただいた。この木型には大阪の菓子木型彫刻職人が製造したことが記されており、この地域と大阪との関係の深さを感じさせて興味深い。このほか、近代の四国地域の菓子木型彫刻職人についても把握することができた。
(*)小橋靖『撫養の砂糖屋』1952より
活動の課題
先の戦災により多くの資料が失われたことに加え、近年の落雁の製造量の減少や菓子嗜好の変化などにより、昭和前半までに作られた菓子木型は、道具であることもあり、現在急速に失われつつあると思われる。
菓子木型彫刻職人についても現在全国に数人しか存在しないなか、基礎的な調査を早急に行って記録を残していく必要性を痛感した。