活動の目的
尾道は瀬戸内海を代表する港湾の一つとして、中・近世を通じて港町独特の景観が形成され、それは「東京物語」をはじめとする映画のロケ地に選ばれるなど、多くの人々を惹きつける魅力にあふれている。本研究は、近年の考古学的な発掘調査の成果にもとづき、港町尾道の成立・発展過程を復元し、港町としての形成史と地域社会に果たした役割を明らかにすることを目的としている。
活動の経過
2年計画の2年次目にあたる今年度の研究では、前年度にリストアップし、13~16世紀の各段階に位置づけることのできた出土地点ごとの資料のうち、まとまった量の資料が出土している第5・6次調査の出土遺物を観察・分析し、近隣遺跡、とくに草戸千軒町遺跡出土品との比較・検討によって、その詳細な暦年代を確定した。
また、出土資料のうち瓦器椀、常滑焼、備前焼、滑石製石鍋などの遠隔地流通品の特徴を分析することにより、中部瀬戸内地域における拠点港湾としての尾道の特質を描き出すことができるようになった。
一方、過去の調査地点の現地を実地に踏査し、昨年度に引き続き尾道の景観復元のためのデータを収集した。今年度はとくに、13世紀代の成立期における港湾の立地条件について多くの知見を得ることができた。
活動の成果
港町尾道の成立は、平安時代末期の嘉応元年(1169年)にこの場所が後白河院領(のちに高野山領)大田荘の倉敷地に認められたことにあると考えられてきた。しかし、これまでの100次を超える発掘調査では倉敷地が成立した12世紀代に遡る資料は出土しておらず、13世紀代以降の遺物しか確認できない。
今回の研究では既往の出土資料で最も古く位置づけられる第5次調査で出土した土師質土器椀を分析し、近接する草戸千軒町遺跡におけるⅠ期後半でもやや古い段階に相当する資料であることを確認できた(画像1)。その暦年代は13世紀後半に比定することができる。
なお、尾道の古刹である浄土寺には、港湾の有力者であった光阿吉近が弘安元年(1278年)に建立したという銘の刻まれた石造宝塔(浄土寺納経塔)が存在し(画像2)、この時期、浄土寺が港湾集落に関係する寺院としての体裁を整えたことがわかる。
これらのことから、尾道は12世紀後半に倉敷地として認められたものの、「町場」としての港湾集落が成立する画期は13世紀後半にあり、それと同時期に光阿吉近によって浄土寺の堂塔も整えられたものと考えられるようになった。
最古の資料が出土した第5次調査の調査地点は、現在の防地口交差点を西に望む丘陵裾に位置している(画像3)。調査地北側の丘陵上には八幡神社、その南方には八坂神社が存在し、両者をつなぐ参道は、かつては南北に延びる尾根筋であったことが復元できる。防地口交差点一帯はかつて内湾する入江であり、そこに流れ込む防地川河口に形成された砂堆が港湾集落成立当初の接岸施設として利用されたのであろう。そして、その背後にある微高地状の丘陵斜面に港湾管理のための施設、すなわち港町として発展していくことになる初期の港湾集落が成立したと考えられる。さらに、入江対岸の丘陵上には浄土寺が建立され、その後14世紀に入ると、港湾のさらなる発展を背景に、律宗寺院として整備が進められることになる。13世紀後半の港湾集落成立時の景観は、以上のように復元できるようになった。
活動の課題
2年間にわたる調査成果をもとに、13世紀以降の港湾集落としての開発状況が明らかにできたため、このデータを可視化する作業を現在進めている。また、港湾集落の成立と浄土寺との関係を解明することが新たな課題として浮かび上がってきた。
なお、これまでの研究成果を広島県立歴史博物館における企画展として公開できるよう、準備を進めている。