活動の目的
戦後70年を迎える中、戦争に関する資料や情報が急速に風化しつつある。これまで調査・研究の対象とされていなかった戦争遺跡もその一つである。そのような状況を危惧し、本研究では広島県を中心とした瀬戸内沿岸部・島嶼部に所在する戦争遺跡の現状を把握し、今後の調査・研究及びその活用に資するための基礎的資料の構築を図ることを目的とするものである。
活動の経過
まず、本研究では広島県の瀬戸内沿岸部・島嶼部に所在する戦争遺跡を把握すべく、『広島県史』や県内の『市町村史(誌)』を中心に、戦争遺跡の集成作業を行った。
次に、そうした基礎的作業を踏まえ、広島県内の瀬戸内沿岸部・島嶼部を大きく、東部(福山市・尾道市・三原市)・中央部(竹原市・豊田郡大崎上島町・東広島市・呉市)・西部(広島市・江田島市・廿日市市・大竹市)の三つのエリアに分けて、実際に戦争遺跡の現地踏査(フィールドワーク)を実施していった。また、その際には各地域の関係諸機関(教育委員会等)の専門家や地元の方々の協力を得ながら進めていった。
なお、現地調査では記録(実測・写真撮影)を中心に行うとともに、関連資料(図面や写真等)の収集、さらに往時を知っている方々からの聞き取りも併せて行った。
活動の成果
今回、実に多くの広島県の瀬戸内沿岸部・島嶼部に所在する戦争遺跡を踏査し、その現状を把握することができた。ここでは紙面の関係から、福山市内に所在した「陸軍歩兵第四十一連隊」、「福山海軍航空隊」、「岩国陸軍燃料廠横島出張所」の三つの関連遺跡について少し述べてみたい。1908(明治41)年、福山に陸軍歩兵第四十一連隊が移転して以降、各地の師団・連隊と同様、兵営の周辺には練兵場、衛戍(えいじゅ)病院や軍用水道、そして陸軍墓地といった関連施設が設置された。そのうちの射撃場は、現在の福山市立大学北本庄キャンパスに相当し、キャンパス及びその周辺には陸軍によって打ちこまれた標柱(境界石)を幾つか確認できる。
1944(昭和19)年、詫間海軍航空隊の分隊として設置され、翌年3月に独立した福山海軍航空隊は、現在JFEスチール株式会社西日本製鉄所(福山地区)となり、市内で最も開発が進み、往時の景観が一変した地域である。しかし、現在でも火工兵器庫・退避壕・門柱・無線室・疎開予定壕といった関連遺構をわずかながら確認できる。
1941(昭和16)年、岩国陸軍燃料廠の出張所が瀬戸内海に浮かぶ小さな横島に設置された。1945(昭和20)年5月の空襲で壊滅状態となったが、横島出張所は艦載機による飛来はあったものの、無傷で終戦を迎えた。戦後、施設はアメリカ軍の管理下に置かれ、朝鮮戦争時には貯油施設として使用された。その後は、民間の石油会社が払い下げを受け、現在では私有地となっている。現在は4基の貯油槽防護壁をはじめ、埠頭・退避壕・監視所・防空用銃座等を確認できる。
以上、身近にありながら、その事実をこれまで全く認識していなかった事例である。我々戦争を知らない世代が、先の戦争を語り継ぐ上で、こうした歴史的事実を「知る」ということが何よりも重要なことであろう。そういった点で遺存状況等、遺跡の現状把握を行えたことは、非常に大きな成果であったといえる。
活動の課題
軍事施設をはじめとする戦争遺跡のほとんどが、整備されることもなく、今では荒地となっている場合が多い。併せて、現在は私有地となっていることが多い。
我々戦争を知らない世代が、先の戦争を語り継ぐ上で、戦争遺跡は重要な遺産である。そのためにも、遺跡の保存・整備といった公的な取り組みが早急に望まれるところであり、今後は関係機関や地域と連携しながら、調査研究を推進していきたい。