活動の目的
瀬戸内海のほぼ中央に位置する塩飽諸島最大の島、塩飽広島(香川県丸亀市広島町)江の浦の西方旧道脇に「英国士官レキ之墓」と刻まれた墓碑がある。
慶応二年(1866)11月、イギリス海軍の測量船シルビア号が瀬戸内海で測量中に乗組員だったレキ士官が病に倒れ、広島の江の浦の海岸に上陸し、レキの棺を海岸に埋めた。シルビア号は日本の水路測量を行い、また島民たちは今もなお、お墓に花を供えている。
しかしながら、この墓が国際美談の象徴の墓だということは知っていても、それ以外のことについては誰も何も知らないし、忘れ去られようとしている。
近く、明治元年から150周年を迎えるにあたって、この歴史的遺産である「英国士官レキの墓」について調査するべく、「イギリス士官レキ研究会」を開いて研究し、島の温かい心を伝えていきたいと考えた。
活動の経過
活動計画によって以下の項目について調査を行った。
①この英国士官レキの墓に興味を抱いて研究している英国在住のグラハム・トーマス氏の協力を得て、英国軍艦の航海日誌(ログブック)他を入手し、航海士官候補生フランク・ツーベイ・レイクの家系や家族の状況の調査
②WEB検索などで、英国海軍人死屍埋葬に関する文書を入手し、広島に埋葬された状況を調査した
③国立公文書館アジア歴史資料センターから、英国公使アーネスト・サトウ氏から青木外相宛の感謝状も入手した
④英国士官レキの墓に関連する人の墓碑探しによる資料の確認作業⑤伝承の中にある「長谷川三郎兵衛」とはいかなる人物であったのかの調査⑥英国士官レキが乗っていた船はどんな船であったのか
活動の成果
①船舶として、灯台敷地調査船「マニラ号」が浮上。護衛艦として「アーガス号」が随行
②埋葬された人物は、英国ハートフォードシェア郡キングス・ラングレー生まれのフランク・ツーベイ・レイクという人だと判明
③長谷川三郎兵衛は京の会計官権判事で燈台に関する財務を担当しており、広島埋葬の手続きを行った人
④墓碑に刻まれた「明治元年十一月七日」はFrank Toovey Lake が亡くなった和暦で、新暦では明治元年12月20日。建立されたのは明治四年、岡良伯らによって企画された。
⑤墓碑建立に協力した「阿闍梨等観」の埋め墓・参り墓の発見
⑥慶応二年(1866)に、広島周辺で測量をしていたのは「サーペント号」であった
以上を整理して看板を書き直すとすれば以下のようになる
「英国士官レイクの墓」
明治元年十二月二十日、この広島沖に二隻のイギリス軍艦が停泊していた。一隻は燈台技師ブラントンの乗った燈台敷地調査船のマニラ号、もう一隻は護衛艦のアーガス号。日曜日の礼拝のために錨泊中、フランク・ツーベイ・レイクという19歳の航海士官候補生が急死した。
燈台寮の会計官権判事であった長谷川三郎兵衛が島の役人に「英国海軍人を埋葬したい」旨申し出て、レイクの棺を医光寺所有地の砂地に埋葬した。葬儀では東京の役人上野敬助が短いスピーチをした。最後に儀仗兵による弔銃の一斉射撃が行われ、船からは弔砲が発射された。式の後、村人が榊の小枝を捧げるのを見て、ブラントン一行は日本人の優れた性質に感激して帰っていった。
明治二年、英国測量船シルビア号が瀬戸内海測量のために来航した。艦長はヘンリー・クレイブン・セント・ジョンだった。彼は広島にあった英国士官レイクの木の十字架を目にして墓参した。
その後、十字架は風雨や霜や雪などで朽ちて倒れた。明治四年(1872)になって、江の浦の庄屋で医師の岡良伯は、村長であった寺脇儀右衛門らと相談して花崗岩で「英国士官レキの墓」という墓標を同所に建てた。
その後、明治九年(1876)になって、再び近海をシルビア号が航行したとき、艦長のセント・ジョンは、乗組員一同を連れて広島に上陸し、同国人の墓参りをした。一行は立派な石碑が建ち、墓前にたくさんのお供えや美しく供えられた花を見て、島民の温情や厚意に心を打たれた。セント・ジョン艦長が帰国するにあたり、ジョン艦長から島の人たちに感謝状が送られた。
さらにまた、明治三十二年(1899)、神戸の領事館のジョン・C・ホールが、瀬戸内海の小島に英国海軍人の墓があることを耳にし、香川県の吉原県知事に調査を依頼した。その報告書が東京の英国公使であったアーネスト・サトウに届けられ、青木周蔵外務大臣にも感謝状が届けられた。これがイギリスの新聞「タイムズ紙」に掲載されて話題になった。
このことは明治初期における博愛と人道の精神と行為が国境を越えて人の心に届き、国際親善となった心温まる美しい話である。
<活動の疑問>
では、なぜ、この伝承は誤って伝えられ残されたのであろうかという部分を考察してみた。
これがシルビア号のジョン艦長からの感謝状であるが、このジョン艦長の思い違いによって、1866 年(慶応二年)、シルビア号、1896年、明治29年などの日付や日時が一人歩きしてしまい、それが伝言ゲームのように誤って伝えられてしまったことによるものであった。
活動の課題
明治初期における人々の心の豊かさを物語り、博愛と人道に満ちた国際親善の美談として、今なお語り継がれているこの話を、文献などにより、さらに当時の状況を調査研究し、島の活性化につなげる。また、当時の瀬戸内海の重要性を再認識するとともに、没後150周年の記念式典に向けての準備をする。