瀬戸内海地域振興助成成果報告アーカイブ

宮本常一撮影写真による瀬戸内文化の資源化

愛知大学 地域政策学部 印南敏秀

実施期間

活動の目的

山口県周防大島に生まれた民俗学者宮本常一は、学位論文『瀬戸内海の研究』に続き、「瀬戸内海からみた東アジアの研究」を構想中に病に倒れた。宮本は調査研究で「写真」を重視し、昭和30年~昭和56年まで約9万枚撮影し、高度成長で変貌する景観や生活文化を記録した。宮本の写真、文書資料、蔵書などは宮本家から周防大島郡東和町(現周防大島町)に寄贈され、周防大島文化交流センター(以下宮本常一記念館)で整理を進めている。写真はネガを電子化して保存と閲覧は容易になった。ただし、1コマごとの情報がなく、学術資料としての価値に課題が残る。宮本は瀬戸内地方を広く歩くが、島嶼と沿岸部の写真が多い。宮本写真を中心とした本研究の目的は次の2 つである。 ①宮本写真のなかで瀬戸内地方の写真について、現地で1コマごとに聞き取りして情報を追加する。 ②宮本写真と宮本の著作や文書資料等をあわせて、宮本が注目した瀬戸内地方の自然や生活文化の特徴をあきらかにする。 本研究は3年間で西・中・東瀬戸内地方を順番に調査する計画である。初年度は西瀬戸内地方の島嶼部の周防大島と倉橋島を中心に調査した。

活動の経過

周防大島は宮本の郷里で、一番長く調査したフィールドである。宮本は瀬戸内島嶼部の棚田と段々畑に関心を持ち、倉橋島の段々畑は神田三亀男氏、周防大島の棚田は藤谷氏に調査を依頼していた。研究代表者(印南)は宮本が団長の周防大島町久賀(『久賀の石工報告書』)棚田調査に参加し石積みの調査をした。その後、宮本監修の『東和町誌別編 島の生活誌』で宮本写真を手掛かりに自然と生活文化の関わりを調査し、高度成長までは松山が里山の、アマモが里海の貴重な資源だったことを発見した。
宮本が注目した倉橋島の段々畑は、研究協力者の佐竹昭氏が古文書により開発の歴史をあきらかにし、『倉橋町史』で開発の経過をあきらかにしている。 これまで宮本資料の整理を担当した宮本常一記念館学芸員の髙木泰伸氏は、今回も宮本写真を中心とした宮本資料をテーマに合わせて整理した。
宮本写真のほか、宮本が写真をもとに書いた『私の日本地図』(同友館)シリーズの『周防大島』と、倉橋島について書いた『広島湾付近』をテキストにした。調査の中心地となった、周防大島と倉橋島の合同調査の経緯は以下の通りである。
・第1回合同調査、2013 年5月4日(土)~ 6日(月)
宮本常一記念館で、周防大島と倉橋島の宮本資料を髙木氏作成の資料をもとに熟覧する。文書資料は、古文書・調査ノート・地図・パンフ・書簡・講演録など多様で、個々に検索できるまでの整理はできていない。宮本資料の総合化は、地域ごとに整理・分析するのが効率的だとわかった。
30年前に宮本と調査した久賀の棚田を、嘉納山まで登って現状を見学した。久賀で一番規模の大きい能庄の棚田を歩き、水田の下を通る水道(暗渠)を佐竹・高木氏と調査する。能庄の耕作中の棚田は中段に3段残るだけで、上方は植林、下方はミカン畑に変わっていた。暗渠の多くは今も残るが、棚田の石積などの現地調査は以前にもまして困難になっていることがわかった。
・第2 回合同調査、2014 年2月26日(水)~ 28日(金)
宮本写真と『広島湾付近』を読みながら呉市の能美・江田島を巡検した。能美島鹿ノ川で海岸域を歩き鹿ノ川公民館に立ちより、聞き取り調査をした。漁業はカキ養殖が中心にかわっていた。
夕方、佐竹氏と呉市海事歴史科学館道岡尚生氏と合流し、夕食後、前回両氏が宮本写真を見ながら歩いた倉橋島での調査報告があった。道岡氏は倉橋島の宮本写真の撮影場所がほとんど特定できたという。佐竹氏は宮本氏が倉橋島の本浦で借りた尾曾越家の古文書が、返却されたままの状況で保管されていて、借用者である宮本と尾曾越家の双方のやり取りの経緯が明確になったという。
27日は、本浦の尾曾越家の前で船大工をしていた上野学園校長管信博氏と道岡氏の案内で倉橋島を一周して宮本の撮影現場をたどった。船着き場は規模は拡大しても船着き場として残り、民家も多数残り場所探しの手掛かりになった。一番変化したのは、海岸線と道路だった。
石積み段々畑の鹿島、風待ち港で栄えた鹿老渡、造船の本浦では現地を歩き、島の繁栄の跡を見てまわった。多様な島の文化が過疎化や合併で、消滅しつつある現状が残念だった。
28日は、尾立に残る法面が粘土で垂直の段々畑に行った。宮本は『広島湾付近』で、本浦から尾立・室尾は山頂まで段々畑が続く。法面は草を生やすと肥料を吸われるので粘土で固めた。石積みより苦労したが、こうした努力で生活できたとある。 段々畑の持主の加登良三氏(昭和13年生)は段々畑でジャガイモを栽培している。昔は麦と芋を植えていた。法面の草は手で抜き、あとを手で叩いて固めた。今は人手がなく除草剤を散布するためコケが生える。草を生やさないと法面はヌケナイ(崩れない)という。粘土の段々畑を築く専門職人はいなくなったが、今なら農家での聞き取り調査が可能だという。
豊島の漁業集落、大崎上島の伝統的建造物群指定の港町御手洗を巡検した。御手洗は過疎化で空き家が多く、文化財が継承できるか不安だった。

活動の成果

髙木氏は宮本写真と文書等の「周防大島」と「倉橋島」のデータを整理して、資源化した。周防大島の宮本写真と現状を比較して、『文化と交流』1・2に「古写真の風景を歩く1-渚の近代化」「古写真の風景を歩く2-水田からミカン畑へ」として連載をはじめた。
佐竹氏と道岡氏は共著で「宮本写真をみながら歩いた倉橋島の今昔(仮題)」を『文化と交流』3 に掲載することになっている。さらに佐竹氏は倉橋島の宮本写真と『私の日本地図』、日記などを参考に、宮本が文献研究からフィールド研究へと比重をうつす経緯をあきらかにした。
3月8日に、宮本資料の整理途中だが、シンポジウム宮本常一撮影写真による瀬戸内文化の資源化を開催し、印南が「宮本常一写真がとらえた瀬戸内文化の転換点」佐竹氏が「近世瀬戸内のくらしと自然」を報告し、髙木氏を交えての討論をおこなった。十分な広報もないなか、多くの聴衆が集まり、関心の深さがうかがえた。
今後は『瀬戸内海』や『愛知大学一般教育論叢』などの学術誌への掲載も予定している。

活動の課題

宮本写真は、高度成長期前の瀬戸内沿岸部の自然や生活文化を具体的にしめしている。本研究で宮本写真を学術資料として資源化するためのフィールドでの基礎調査の重要性が、あらためて実感できた。
宮本写真から宮本が現地で発見した瀬戸内沿岸部の自然や生活文化の特色が発見できた。倉橋島のフィールド調査で気付いた段々畑の重要性である。瀬戸内島嶼部の農業で一番大切なのは、棚田ではなく段々畑である。その基本問題を、日本人の稲作中心思想のなかで見落とし、問題にしてこなかった。
尾立の法面が粘土の段々畑の民俗技術など、まさに消えつつある重要課題に気がついた。『倉橋町史』の佐竹氏による古文書による尾立の開発史とあわせ、尾立の段々畑を民俗技術や開発史の視点から早急に現地調査し、宮本のフィールドワークと古文書双方からの研究を受けつぎ、成果をあげたい。今後、中・東瀬戸内沿岸地域の宮本写真による研究が継続できれば、瀬戸内各地で段々畑の調査研究をすすめ、瀬戸内沿海部の段々畑の開発と管理の両面から総合的に研究し、日本における特徴をあきらかにしたい。