活動の目的
漁業は農業と比べ生産の変動が大きく、生業の安定性という暗黙の前提の下ではこの側面はどちかかと言えば、否定的に評価されることが多い。しかし、漁不漁の変動の中で、間歇的におとずれる大漁は、一種祝祭的な時空間を漁村にもたらし、人々を漁業へ誘う誘因ともなり、漁民に特有の心性を刻印した。本年度は瀬戸内地方の網漁をテ-マとした大漁の絵馬を新しい方法により分析し、大漁の信仰と習俗の実態を明らかにした。
活動の経過
大漁の絵馬については、拙稿「地曳網漁業技術の史的考察」『瀬戸内海歴史民俗資料館紀要11号』で、地曳網漁の漁業技術の資料として、全国的な分析を行ったが、大漁の信仰と習俗の観点から、網漁の絵馬全般についての調査は行っていない。瀬戸内地方では前掲書で、福岡県福間町諏訪神社の安政4年(1857)のイワシ地曳網漁の絵馬1点を分析、また、拙稿「香川県仁尾町のボラ地曳網と絵馬」『同上第13 号』で、香川県仁尾町大北恵比寿神社のボラ地曳網漁の絵馬2点(明治41年・昭和8年)を分析した。今回の調査では、香川県仁尾町南の恵美須神社のタイシバリ鯛漁の絵馬1点(明治40年)と同県観音寺市港町龍王宮のタイシバリ網漁絵馬1点(明治37年)、大分県大分市佐賀関市の早吸日女神社の鯔網漁大漁光景図絵馬1点(明治45年)の調査を実施した。さらに、これらの瀬戸内地方の絵馬と比較するために、高知県幡多郡高岡神社の鰤敷網漁絵馬2点(明治34、41年)、同県香南市夜須八幡神社の揚繰網漁絵馬2点(明治40年)、鳥取県境港市小篠津町の日御碕神社の地曳網絵図1点(明治36年)、同市中野町の地曳網絵図1点(明治11年)、徳島県海部郡美町(美波町)阿部の宮内神社の鯔網漁絵馬1点(明治26年)、同県阿南市椿泊の佐田神社の揚繰網の大漁の図1点(明治32年)の調査分析を行った。
活動の成果
これまでの研究の成果をもとに次の新しい仮説を提起したい。
1 奉納の目的
網漁の絵馬の多くは大漁旗が描かれていることから、大漁の絵馬が多いと言えるが、これまで大漁とは何かを明確にした研究は少ない。大漁による気分の高揚は、網子による網元への飲酒の要求を生み出し、網元も頻繁な要求に対処するため大漁の基準を漁獲高により定めることが多い。大漁は主観的なものではなく社会的なものなのである。仁尾のタイシバリ網の絵馬の聞き取りでは、マダイやサワラが100貫以上捕れたことを大漁と言い、絵馬に描かれた大漁旗も、そのような社会的合意が含意されている。それではこれらの絵馬は大漁を祈願したものか、大漁成就を神に感謝して報謝したものか。瀬戸内地方では、大分県早吸姫神社の絵馬が大漁の日時を記し、福岡県諏訪神社の絵馬も大漁の日を記していることから、報謝を目的とするものが多いと思われる。地曳網漁業技術に関する前掲書の分析でも地曳網漁の絵馬は全国的に報謝が多かったことから、大漁の絵馬は大半が報謝によるものと考えられる。他の職人図絵馬でも同様の傾向があると言われ、これが瀬戸内地方の大漁の絵馬にも当てはまることが明らかとなった。
2 網漁の種類
大漁の絵馬に描かれた網の種類は、香川県仁尾大北の2枚の絵馬と大分県早吸日女神社の絵馬1点の計3点が地曳網で、ついで香川県仁尾と観音寺の絵馬各1点がタイシバリである。全国的にも地曳網が最も多く、次いでタイシバリ網を含めたまき網が多い。地曳網もまき網も魚群を網で包囲して上部は海面、下部は海底で魚の退路を断ってこれを捕獲する。違いは地曳網は浜に網を揚げ、まき網は船上に網を揚げる点である。海底は魚にとり魚礁など多様な生態学的な意味を有するが、そこに網を入れることで海底や海面は大量捕獲のための遮蔽物としてその意味が変容する。道具で自然に働きかける生産は、環境の物理的改変であると同時に環境の意味の改変でもあり、技術により脳外で行われる意味の変容が脳に媒介され、そこから多様な心性を生み出す。瀬戸内地方では、短期間に大量漁獲を可能にする網漁を大職漁といい、小規模な漁具で周年の安定した漁獲を目指す網漁を小職漁と呼ぶことがあるが、大職漁は不安定であるがゆえに間歇的に大漁という非日常的な時空間を漁村に創出し、特有のリズムと心性を人々に刻印する。網に豊漁の霊が宿るとするオオダマ信仰も、瀬戸内地方ではタシバリ網や地曳網に多く、網の袋部の浮樽や浮子をオオダマとして信仰した。香川県仁尾南のタイシバリ網漁の絵馬には網の中心の浮樽が大きく描かれているが、絵馬の聞き取りによると、漁の前にこの浮樽をオオダマとしてお神酒をかけたという。では、まき網と比べ地網漁の絵馬が多いのはなぜか。地曳網は最後は砂浜に引き揚げるため、砂浜と地続きの地先の海底が魚を捕獲する遮蔽物となり、そこから漁場の用益権の意識を生み出す。したがって、網子も網元の村で雇用し、地元の神社への絵馬奉納という行為が生まれやすくなる。一方、まき網は沖で網船に網を揚げるため、網元の村との地縁は薄く、外部から網子を雇用することも多く、地元の神社への絵馬の奉納は行われにくい。香川県のタイシバリ網漁の絵馬は比較的地元で網子を雇用した結果、絵馬奉納へと結びついた事例と思われる。
3 奉納の主体
網漁の絵馬は網元と網子が共同で奉納したと漠然と考えられてきたが、実際は網子が主体となって奉納する場合が多い。地曳網漁業技術に関する前掲書で、千葉県の外房のイワシ地曳網漁の分析を行ったが、近世は網子の中核となる沖取と呼ばれる若者から絵馬奉納が始まり、これが沖合など網子の指導者に及び、明治時代になって網元の名があがるようになる。これは網漁の絵馬が現場の網子を主体に奉納されたことを示す。瀬戸内地方の場合も、香川県のボラ地曳網漁とタイシバリ網漁の絵馬はすべて奉納者に網子の名はあがるが、網元の名前はない。もちろん、福岡県の諏訪神社や鳥取県の日御碕神社の絵馬のように網元の名が筆頭にある例もあるが、全国的に見るとこれは少数例と言える。
活動の課題
絵馬が主に網子により奉納されたことは、他の奉納物との比較でより明確になる。これまで神社の奉納物の種類による奉納者の階層の相違を明らかにした研究はない。たとえば、香川県仁尾町の大北恵比須神社のボラ地曳網漁の絵馬や仁尾町南の惠美須神社のタイシバリ網漁の絵馬は、網子により奉納されているが、鳥居や常夜灯や玉垣などの奉納は網元が主導するなど、その階層差は明らかで絵馬が現場の網子の奉納物であることが分かる。
今後の課題は、大漁の絵馬の分析の対象を絵馬のみに収束させることなく、奉納物全体の中で大漁の絵馬の位置づけをおこない、その奉納の意味を明確にすることである。また、鳥居や石垣や常夜灯などの奉納物は絵馬と同様に大漁の収入により造営されることが多いようであるから、奉納物の奉納年月日を時系列的に整理すれば、統計資料の少ない一漁村の一網組の漁の消長が奉納物で明らかにできる可能性がある。今後も漁村の神社の奉納物の奉納年月日の調査を進めていきたい。