活動の目的
大正・昭和に活躍したキリスト教社会運動家・賀川豊彦は、1933年に農民福音学校を設立した。その後賀川の弟子である農民教育家・藤崎盛一(1903~1998)が47年瀬戸内に豊島農民福音学校を開校した。賀川・藤崎は貧農救済を第一の目標とし、キリスト教に根ざした「愛土・愛隣・愛神」の精神と「立体農業」の理論を教育した。「立体農業」とは米作のみならず、蔬菜・果樹栽培、家畜飼育を導入し、農畜産物加工も行う理想的な農村社会経営の理論である。
当学校では、農閑期の1カ月、全国から農村青年が合宿し、循環型の多角経営農業を学んだ。また、当学校では芸術文化や宗教によるこころの教育にも力を入れ、特に「女子農民福音学校」の実施など農民女性のための調理加工指導等、他に例のない活動も行われた。多い時は1学期50名を越える生徒が集まったが、高度経済成長期以降の日本農業の近代化・大規模化に立体農業の理念が合致しなくなり、82年に豊島農民福音学校は閉校した。藤崎は35年間に約920名の卒業生を瀬戸内から世に送り出し、ブラジル等海外でも立体農業を指導した。
近年、時代に先駆け、「循環農法」や「6次産業」に取り組んだ豊島農民福音学校の活動に多くの人々の関心が集まっており、その歴史の発掘は瀬戸内海文化の活性化につながると考えられる。本研究は、今後増加すると予想される来訪者向けに、史料目録と活動年表・概要をわかりやすく提供することを目的としている。
活動の経過
2013 年4月:各種調査準備、大学研究機関・専門家との交渉・打合せ・調査計画・スケジュールの立案
2013 年5月:豊島農民福音学校の関係者からの聞き取り・予備調査
2013年6月~ 7月:豊島農民福音学校の資料および写真資料の調査・整理
2013 年8月~ 9月:豊島農民福音学校の関係者からの聞き取り調査
2013 年10月~ 11月:歴史調査原稿、年表のまとめ
2013 年12月:資料整理作業準備
2014 年1月~ 2月:資料の整理(コピーとファイリング)作業、写真資料のデジタル化作業
2014 年3月:報告書作成
活動の成果
ト者・グルンドヴィ(1783 ~ 1872)によって三愛主義(神を愛し、人を愛し、土を愛する)を基本理念として、1844年に最初のデンマーク・フォルケホイスコーレ(民衆学校)が創設された。かつてデンマークがドイツとの戦いに破れ、よい土地を取られどうにもならない状態に追い込まれた時に、グルンドヴィが「青年よ、外より内へよみがえれ」という大運動を展開した。そして、1900年代初頭から日本へも紹介され始め、流行と呼んでもいいような盛り上がりをみせた。1913 年に刊行されたホルマン著『国民高等学校と農民文明』は日本にも紹介され、志をもつ人びとに大きな影響を与えたようだ。1913 年、同書を読んで感銘を受けた杉山元治郎(1885 ~ 1964)が牧会していた福島県小高で小高農民高等学校を開設した。これが日本で最初のデンマーク・フォルケホイスコーレであり、農民福音学校の先駆けでもあった。農民福音学校の発展に杉山元次郎とともに尽力したのが賀川豊彦(1888 ~ 1960)である。賀川豊彦は神戸市新川の貧民窟での伝道をはじめとして、徹底的に庶民とともにキリスト教を歩んだ牧師である。しかし、賀川豊彦は後に「私の14年間の貧民窟の社会事業が失敗したのは何故か? 自然を与える方法を付けなかったからである」という反省から、「自然」を前面に出す教育がとられる。賀川豊彦の自然への深い関心ゆえに、その目線は労働者教育ではなく、農民教育へと向かったのは当然であった。そんな中、杉山元次郎が本格的に賀川豊彦と共に農民福音学校を始めるきっかけになったのは、1924年に賀川豊彦のデンマーク・フォルケホイスコーレへの視察であった。賀川豊彦は杉山元次郎に宛てた手紙の中で、農村を改良するのは、矢張り、グルンドヴィ流にやらなくちゃいけないと思います。つまり私の云うのは、土から生えねばならぬということです。私は、日本に於いても、ロシアやドイツの真似をしないで、デンマーク流に、農村に於ける精神的改造から,はじめねばならないのではないかと思います。
農業とは? 神様は天地を創造され、最後に人間を創造してくださった。生き続けるためには、食料が必要である。人間にその食料を与える為に、神様は、人間の創造に先立って、植物と動物を創造してくださった。それを生産するのが農業である。食料は人間が生きていくために、欠かすことができないものであるから、農業は最も重要な仕事であり、産業である。『主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。』創世記2・15 アダムの時から農業は行われていた。賀川豊彦は「農業は聖業である」と言っている。神と人間との共同作業であり、神の創造の業に関与することである。
こうして、1927年2月11日から3月11日まで、第一回日本農民福音学校が開校された。その、講義科目は「キリスト教一般」「旧約書の精神」「新約書の精神」「キリスト伝」「教会史」「農村社会学」「農業通論」「農家経営法」「農村社会事業」「その他特別講演」であった。一見すると、伝道色の強い授業内容に思えるのだが、賀川豊彦は独自の農業論をもっており、やがて積極的にその展開を図ることになる。それが立体農業論である。1930年代に農学士・藤崎盛一(1903 ~ 1998)を講師に迎えると、立体農業に基づく農業論が農民福音学校の重要な要素となっていく。
それでは立体農業とは何だろうか?1929年、アメリカの経済地理学者J・R・スミスの著書=Tree Crops :A Permanent Agriculture(樹木作物―永続的農業―)を、1933年に賀川豊彦が『立体農業の研究』と訳して世に問い、「日本に於ける立体農業」という序説を書いている。狭い意味では樹木作物(栗、胡桃,杏、梅、栃、椎など)の栽培をいう。これらは蛋白質、脂肪、澱粉を与える「生命の樹」なのである。稲作中心の農業は「平面農業」であり、特に山岳の多い日本では「立体農業」に注目すべきだと説いた。賀川豊彦の協力者・小寺俊三は樹木作物栽培や優良家畜飼育のほかに、普通作物、果樹、蔬菜、小家畜,農産加工、畜産加工その他適地適時適作を示し、健康明朗な生活を営む理想的農村社会の運営―協同組合主義によるーに至るまでの総合的農業経営法である。多角的な山地利用の農業と言い換えられる。賀川豊彦の立体農業論は農業技術者であった藤崎盛一の参加によって立体農業の普及が進められた。藤崎は1933年(昭和8年)武蔵野農民福音学校に携わり、戦後の1947年(昭和22年)からは香川県豊島において豊島農民福音学校を主宰した。武蔵野農民福音学校までは農村男性が対象であったが、豊島農民福音学校では農村女性のための夏期農民福音学校も開催している。藤崎の立体農業には「生活の立体化」をもめざすもので、生活を豊かにし、生活を楽しむことも含んでいた。豊島では毎年1月から2月にかけて男子農民福音学校が一カ月間開かれ、8月には女子農民福音学校が開かれた。また長期塾生として一年間、数名~ 10数名の生徒が家族と一緒に生活し、学んでいた。一カ月間の農民福音学校には、1940年代(昭和20 年代)から1950 年代(昭和30年代前半)までは、10 数名から50名を超える生徒が集まっていた。しかし、高度経済成長期に入り構造改善による大規模化、選択的拡大を推し進める基本法農政が始まる1961年以降、立体農業の理念はその時代の農業経営には合致しなくなっていったのだ。ただ藤崎は信念をもって『猫の目』農政を批判していた。よって、次第に参加者が減少していった。そして、1982年をもって閉校せざるを得なくなった。その35年間で約920名の卒業生を送り出した。立体農業論は、徹底した循環農法をめざしたものだった。環境にやさしい農法ということだけでなく、「明日の明るい楽しい農村」建設のための方法で、今日、1次と2次と3次を掛け合わせた産業、即ち農業×農畜産加工×販売という「6次産業」が注目されている。その先駆的な提唱が既にここには見られる。
活動の課題
当該研究計画に当初組み込んでいた調査研究事業、とくに豊島農民福音学校関係者のオーラル史料の収集、豊島農民福音学校に関する冊子制作は諸事情によりできなかった。今後の課題としたい。