瀬戸内海地域振興助成成果報告アーカイブ

江戸初期における瀬戸内城下町・高松の空間構造 ―「高松城下図屏風」の検討を通じて―

國學院大學 文学部 川名 禎

実施期間

活動の目的

本研究は、瀬戸内海に面した近世都市についてその性格を明らかにすることにある。事例として取り上げる讃岐国の高松城下町は、中世の港町野原を基盤としつつ、その後瀬戸内海航路を押さえるべく派遣された近世大名の城下町として発展した。松平氏が入部して間もない時期の高松を描いた「高松城下図屏風」(香川県指定文化財「紙本着色高松城下図八曲屏風」香川県立ミュージアム蔵)は、近世初期の地方城下町の実態を知るうえで全国的にも貴重な資料である。 本研究では、「高松城下図屏風」の分析を通じて、歴史地理学における都市プラン研究の流れを踏まえ、高松城下町が持つ普遍的な都市構造についての考察を試みた。

活動の経過

調査にあたって当初「高松城下図屏風」を保管する香川県立ミュージアムにおいて資料の原本調査を予定したが、原本の閲覧は叶わなかった。そこで、屏風絵の図像分析と現地比定のための関連資料・文献の収集に力点を置いた。屏風絵に描かれた景観の現地比定については、当初予想していた以上に時間を要した。それは、高松では災害を契機とした都市の改変が著しく、とりわけ享保の大火や第二次大戦、南海地震などによる被災の影響が顕著であった。また、現在の地表面から近世初期の遺構面まで2m程度の深さがあり、現状の地割をそのまま復原に適用することも慎重にならざるを得なかった。そこで、高松市立歴史資料館及び鎌田共済会郷土博物館などに所蔵される高松城下絵図や、法務局の地籍図、戦後の復興都市計画図、城下域の発掘報告書などを参照し、現在の地割から遡及的に近世初期の地割を復原することにした。

活動の成果

とその周辺を克明に描いている。その特徴は、精緻な景観描写に加え、基本的にデフォルメを排して空間の歪みを極力抑えた地図としての性質にあるといえる。恐らく同時期の絵図が原図となり屏風絵が作成されたと推測されるが、現存する絵図とは整合性が取れなかった。本屏風絵が基本的には都市の実態を反映したものであることは、復原作業を通じても理解することができたが、果たしてどの程度までが現実を描いたものであるかを見極める必要がある。現在までに行った分析では、街路の形状、生駒時代の空き家となった屋敷地、合筆された屋敷地の描写などに、現状を強く反映した性格が窺われる。例えば、郭外の侍屋敷数を数えると、170軒程度になるが、これは生駒時代の絵図に記載された同屋敷数162軒に極めて近い数字といえる。その一方で、主に郭外における個々の家屋根の形やその表現、町屋の軒数、屋敷地奥の描写には意識的に類型化された表現が目立つ。ひとつの街区に描かれる町屋敷の数も現実とは異なっているようであり、一般の町家の平均的な間口が5間程度であるのに対し、絵図の屋敷数ではその倍以上も広くなる。
このように、本図は非常に精確な景観描写を行っているとみられる都市景観図ではあるが、細部においては違和感のない程度にデフォルメがなされているようである。
しかし、個別に描かれた類型的な描写もある種のまとまりを持つことで、特徴ある地域を表現するといえる。
図2は、絵図に描かれた暖簾・看板の分布を示したものである。莚暖簾(むしろのれん)を掛ける魚棚を除けば、縄暖簾が城下の縁辺部にみられるのに対して、一般的な長暖簾は城下の中心部に分布する。ここに異なる地域的様相を窺うことができる。とりわけ屋敷間口の半分以上を暖簾や水引で占める商家の分布は、主に南北方向の街路に沿った極めて特徴的な分布を示す。高松城下町は、矢守一彦氏の城下町プラン論では、横ブロック型の城下町に該当する。これは一般的に「ヨコマチ」型とされているタイプで、街道の導入による交通・流通を生かしたプランだと説明がされている。しかし、暖簾、看板の分布では、横方向とクロスする縦方向に間口いっぱいに店を開く商家が分布し、いわゆるタテヨコの議論とは矛盾する。近世を通じて高松城下は横方向の発展も顕著ではあるが、現在の丸亀町や市役所通りに代表される縦方向の町並みは、一貫して高松の都市構造を規定している。このことは、屏風に描かれた人物図像においても確認できる。屏風に描かれた人物は、1,033名を数える。そのうち、刀を差した人物が388名、裃を着けたものが60名程度みられる。侍の多くは登城の様子を描いており、南から北へ縦方向に城へと向かっている。また、女性が84名程度みられるが、そのうち48名は、水桶を頭上運搬し、南寄りにある井戸から、海に近い北方の郭内や町屋へと移動している。高松は寡雨地域でもあり、上水道建設以前には水運びの仕事が日常的な労働として存在していたと考えられるが、こうした都市住民の日常的な行動も、縦方向に規定されているのである。さらに牛や馬を連れて農村からやってくる農民たちも、ほとんどが縦方向の街路に沿って描かれていることから、内外ともに縦の軸が重要であったことが理解できる。これがまさに高松の基本的な都市構造であるといえるが、それは先行研究でいわれる交通・流通と都市プランとの関係では説明がつかないのである。恐らく高松の空間構造は、中世に野原と呼ばれた頃から続く、港町の性質を根底に置いているのではないかと考える。このことは、瀬戸内海の他の都市を考えていく場合でも強く意識しなければならない点であろう。
また、絵図から読み取れる空間構造として、城を中心とした階層的序列の性質が指摘されている。この点は一般的な城下町の性質としても説明されることが多い。しかし、屏風に描かれた城下の風景は、シンメトリーな形態のなかに、アシンメトリーな景観がみてとれる。それは、武家地と町人地との対比である。郭内外を問わず、この仕組みがみられ、城の東西に位置する2つの港湾でもこの違いを顕著に描いている。さらに、この東西対比の傾向は近世を通じてより一層鮮明となる。例えば、江戸期を通じて一番丁以降の武家地が城下の南西方向に向けて拡大している。
このように、描かれた高松の都市景観からは、縦(南北)方向へ向かうベクトルと東西方向の対比が、さらに城下の縁辺では東浜と西浜というシンメトリックな地域が存在し、極めてユニークな都市構造が看取できる。

活動の課題

今後は当該期以降の高松城下の変遷を、絵図の復原を通じて段階的に明らかにしたい。それと同時に瀬戸内海の諸都市との比較を試みながら、都市空間の不変または可変の構造の分析を通じて、未来の高松を考えたい。