活動の目的
古来日本海や太平洋につながる移動交流の舞台であった瀬戸内海は、東西方向の海域沿岸エリアにとどまらず、中国・四国・紀伊などの山河にその文化を広く深く浸透させてきた。本研究では山越えし、川を上り下る瀬戸内海文化を「南北の瀬戸内海文化」と名づけ、鉄・石・酒などの生産活動、高瀬舟などの水運、金屋子、鬼、天狗や弁天などの信仰や伝承を通して、交流の軌跡を実地にたどった。瀬戸内海と離れた山河の中に多重な瀬戸内海世界を見い出し、新しい旅学を創出していくことをねらいとした。
活動の経過
中国・四国・紀伊等の山河海をつなぎ、「南北の瀬戸内海文化」を目に見える体現可能な旅路に組み立てるため、本研究では写真家・出口正登との共同研究により、映像と観察、聞き取りによる現地調査記録を実施した。近距離を含む調査日数はそれぞれ延べ30日以上にわたり、調査地は、瀬戸内海の沿岸・島嶼部を軸にしつつ、山陰や高知、京都、紀伊、琵琶湖等に及んだ。その結果、1年で映像、文字記録ともに相当量の一次資料を蓄積することができた。フィールドでは鉄・石・水・船などに着目し、それらとかかわる信仰を含めて検討した。
活動の成果
高瀬舟水運は、近世初頭、岡山の吉井川から瀬戸内海をへて京にもたらされた「南北の瀬戸内海文化」のひとつである。高梁川や旭川には平底で船首舷側に目穴をもつ高瀬舟が残るが、その特徴は京都に定着した高瀬舟に共通し、ともに木造船の終焉期まで基本技術は踏襲された。操船技術にたけた岡山の船頭衆と、牛窓を拠点とした船大工衆の嵐山への移住によって拓かれた保津川舟運は、物資輸送の役割を降りたのちも観光へ転じ、保津峡の渓谷美を伝える役目を担ってきた。この川下りがひとり都で生まれた文化でないことはあまり知られてはいない。中国山地の上流から鉄や米、ベンガラなどを瀬戸内海へ運んだ高瀬舟は、岡山の地でもっと磨かれてよい文化である。後楽園にほど近い旭川の川面に高瀬舟を浮かべることができれば、山河海をつなぐ瀬戸内海文化の記憶は一層鮮明となるであろう。それにしても高瀬舟の船大工の拠点はなぜ、吉井川の河口からやや離れた牛窓の港だったのだろうか。牛窓の目と鼻の先にある対岸の前島を訪ね、気づいたことがある。江戸時代初期、徳川家の命により大坂城が再建された際、前島は石垣用の石を切り出す丁場となった。前島は丁場と水際が近く、牛窓港も近い。切り出しから運搬までスムーズな地の利が石材業を発達させ、運搬には平底の平田舟が活躍した。当時この瀬戸を通過した朝鮮通信使は、石船のひしめきあう光景を目撃していた。石材の運搬に平底の川舟は合理的だったに相違ない。石を扱う荒仕事に船体の消耗は激しく、船大工は忙しく船を造り続ける必要があった。牛窓は海と川の結節点として機能していたのである。高瀬舟の特徴である目穴は横方向に丸太をさしこみ、船をオカから曳行する際の綱引き等に活かされる。加えて目穴は横づけした2艘に棒を差し込み、双胴にからくむ作業にも有効であったろう。帆布の織り方を改良し、航海性能を格段に推進した高砂の工楽松右衛門が浮力を活かした特異な石釣船を考案し、築港などの土木工事に利用するようになるのは大坂城再建からさらに150年以上後のことだった。前島の丁場に立てば、高瀬舟建造の拠点が牛窓であった理由も腑に落ちるのだ。
さて、酒造も山河海をつなぐ「南北の瀬戸内海文化」である。灘五郷は六甲山の宮水、その北の三田の酒米、さらにその北の篠山の杜氏が育てた文化である。山麓のどの水脈でも旨い酒ができるわけではなく、「西宮の浅井戸の水に優るものなし」という味覚が発見されて以来、五郷をはじめ遠方の酒蔵からも水が求められた。その運搬を担ったのが瀬戸内の島々である。中でも香川県伊吹島の船頭衆は船と水双方の扱いがうまく、近世から近代にかけ、水船は島民の格好の出稼ぎ仕事となった。また『都名所図会』に淀川が描かれた頃には、伏見と八軒家浜を結ぶ30石船の船頭としての活躍もあった。
山河海をつなぐ「南北の瀬戸内海文化」として欠かすことができないのはタタラ製鉄である。出雲の比田には製鉄の神・金屋子を祀る神社がある。金屋子は播磨の千種から白鷺に乗って比田に降り、タタラ製鉄の技術を伝授したと伝える。『播磨国風土記』にも現れる千種川源流域で産出される千種鉄は良質で、一帯は明治前期頃までタタラ製鉄のさかんな土地柄だった。千種町内海では個人の庭先に小さな金屋子の社が祀られていた。荒尾にあったものを移したのだという。西河内の鍋が森にもテッツアンと呼ばれる鉄の神様が祀られていた。内海のムラは15軒、今は独り暮らしの家が多いが、屋敷の風格は一昔前の羽振りのよさをうかがわせる。鉄が衰退したのちも広大な山林のおかげで物入りとなれば、木を数本売ればよかった。「旅行へいくにも、嫁に出すにも、子供を学校へ通わせ、下宿させるにも」である。中国山地には鉄とかかわる信仰と川の文化が、瀬戸内海と接続する形で豊かに広がっている。
厳島は、瀬戸内海の海上信仰の中心である一方、三大弁財天の地として、琵琶湖の竹生島、奈良吉野の天川と山河海をつなぐ。吉備の鬼ノ城と女木島・男木島の鬼洞窟、鬼無の桃太郎伝承地は、島と山河を南北に鬼がつなぐ。これらの伝承地には河内や太秦を根拠地とし、大陸の土木技術をもって川を制し、製鉄などの産業振興とかかわった秦氏の軌跡が重なり合っているのである。
活動の課題
鉄、石、水、船、鬼、金屋子は互いに関連しあった、山河海をつなぐ「南北の瀬戸内海文化」であった。かき消された航跡、草むす踏み分け道をたどれば、その歴史文化の旅路をいくつも描きだすことができる。それらの発見は、瀬戸内海の文化力を一層高めていくものである。瀬戸内海の多島が放つ、時代と響きあう流転の精神文化についても今後さらに検討を進めていく。